根岸の横浜監獄
かつて掘割川沿いの根岸(現在の磯子区丸山の一角)には横浜監獄がありました。
近代法治国家の象徴でもある監獄は、国家にとって重要な建築物です。横浜監獄の建設には、当時は内務技官であり官庁建築家として有名な妻木頼黄が管掌し、遠藤於菟が神奈川県技師として建設にあたりました。
根岸の監獄が竣工したのは、1899年2月6日のことです。新しい監獄は、周囲に高さ4メートル50センチあまりの煉瓦塀をめぐらし、広さは2万2千坪余、総建坪は約6,600坪、建物は34棟で、独居房、雑居房、病監、見張所、浴室、炊事場、作業所、運動場、接見場、倉庫などに分かれ、初年には1,048人が収監されていました。
震災による倒壊
しかし、威容を誇った横浜監獄は短命でした。竣工から20年余後の1923年9月、関東大震災が起こったのです。
地震発生により、敷地内の建物合計81棟のうち、28棟が全壊、そのほかの建物も半壊し、周囲の赤煉瓦塀はすべて倒壊しました。つづいて隣接する横浜市市電局滝頭寄宿舎より火がせまり、看守・受刑者の必死の消火もむなしく、建物は全焼し、看守2名、受刑者52名が圧死・焼死しました。
多くの受刑者・生存者は刑務所に残り、応急施設の建設などにあたり、一部の受刑者は名古屋刑務所に移送されました。
その後、震災復興の過程で、根岸付近は発展し、刑務所の場所としては適さなくなり、横浜刑務所は中区笹下町=現在の港南区港南に移転されました。
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