コラム

故郷の思い出・榊祭

久良岐の会「海があったころの本牧・根岸」より、第2部「人々の暮し」Ⅵ.故郷の思い出(大久保 喜八)3.榊祭(53-55頁)を転載します。

根岸の年間行事「榊祭(さかきまつり)」は、毎年八月十五日に行われた。加曽、芝生、岡、堀割の四地区で構成され、宮本を順番に務めた。宮本になると榊神輿、御輿、山車を受け持ち、その他の地区は山車のみであった。四地区の輪番制故、四年に一回宮本を担当することになる。この榊祭はおおきな榊、カラフルな榊襦袢、海上渡御で有名であった。

  1. 8月14日 宵宮(よみや)
  2. 8月15日 本祭
  3. 8月16日 後片付(はちはらい)

御照覧(ごしょらん)

準備中

榊襦袢(さかきじゅばん)

準備中

山車は四台で、山車人形は神武天皇、加藤清正などの人形のまわりに小玉の飾りがついている武者人形が飾られている。

山車は各地域で出す。宮番でも山車は出せる。祭礼は8月14日、夜宮、8月15日本祭、はやし方は山車に乗らない(楽器は山車の後につける)、山車は重いので大勢の人で引く。

道路が狭いので、板塀を壊したりするので、その費用も祭りの費用に入っていた。

紀元2600年(西暦1940年)が盛大な最後だった。

渡御した榊の御利益

榊が目出たく境内に収められると、祭りは終了したのである。そして榊の一枝でも昔から厄除けになると言われ、氏子は競って少しでも多くと家に持ち帰り、大神宮様の神棚に飾って置く。

細かい枝は全部夜中に取り去られてしまう。太い枝のみが残されている。

これがはちはらいを迎えた八月十六日朝の光景である。

榊祭はもう出来ない

青年の血を沸かせた榊祭はもうできない。戦後一回加曽地区のみで行われたが、それも至って小型の榊であった。

それでは一体なぜできないのか。

  • 原材料となる原木の榊が三浦房総方面に無くなってしまった。
  • 材料が仮に入手できても榊神輿を作れる人が皆無である。
  • 重量が約1tあり、水に濡れるとものすごく重くなる。戦前のように肩、腰の強い青年は現在はいない。

残念ながら過去の祭りとなってしまった。

榊祭への郷愁

明治、大正、昭和の初期、根岸で榊祭に勝る行事は無かったと言っても過言ではない。祭礼は娯楽プラス豊作、豊漁の感謝と祈願、更に一家の安全を籠めて盛大に実施されたのである。また健康にも十分注意して「ベストコンディション」に持って行く。当日は竹馬の友と久闊を謝し互いの健康を、喜び合ったものである。炎天下、香りの満ち溢れたあの重い榊に青年の生き甲斐を感じたのである。

注:「海があったころの本牧・根岸」発行年は昭和59年12月です。その時点では、榊祭りは絶えていました。昭和60年に有志の力で復活しましたが、失われた故郷の思い出を惜しむ当時の文章そのまま転載しています。


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