コラム

根岸榊まつりの由来

根岸榊まつりの由来について、根岸町祭礼委員会の岸委員長がまとめた資料をご紹介します。

江戸時代(1684)頃、白滝不動尊が霊験あらたかと言われた事で、地元(加曽)の氏神として尊栄する様になり、元禄三年(1690)加曽の氏子達は不動尊をお腹ごもりする為に、大きな不動尊を造立する事にし、鎌倉の仏師三橋甚平衛・数馬の両人に頼み、同年9月に出来上がりました。村人は堂の上の段に新しく社殿を建立し、この新像の腹中に旧像を納め白滝不動尊像として祀ったのです。社の別当は宝積寺住僧隆弁が務めました。

すると、上根岸村の村民が、この社の氏子になりたいと申出て加曽と上根岸村の両村の鎮守となりました。両村の氏子は不動尊が土中から出現した日といわれる7月28日を祭礼の日と定めました。

村では神輿をつくり、その日は榊神輿を先頭にして神輿が続き、太鼓櫓を引き回し、賑やかにはやしながら村々をねりまわったということです。

根岸の祭りの歴史は今年で333年となります。

此の村祭りは大きな榊神輿作りから始まります。氏子の人々は別当寺の宝積寺の庭に集って榊神輿を作ります。榊の枝を付近の山から採って来ます。枝をとりつける台は、大きな臼のようです。昔使った臼は高さ六十cm位さしわたし1m30cmくらいの樫の木で餅つき臼より大きいが平べったい形です。この大臼に枝をいっぱい取りつけるのです。かなり重いもののようです。

7月28日の祭り朝には神輿が宝積寺に集まり、榊神輿と神輿に続く行列は門前から出発して白滝不動堂にむかって練って行くのです。

祭礼は年ごとに派手になって行きました。その後も度々霊験があったのでしょうか、明和元年(1764年)芝生(東・西町)、下(下町)、馬場(馬場町)の村民が、不動尊の氏子になりたいとの申入れがあり、それから7月28日には各村の榊神輿が不動尊に勢揃いし盛大な祭りが行われた。しかし各村は年を追う毎に、祭礼の出費や運営に行き詰まり、休む村も出てきて、話合いの結果、全村を①加曽(かぞお)、②芝生(しぼう)、③岡(おか、上・下・馬場)の3地区に分け、毎年輪番で祭りを主催することになった。これが3年に1度の祭礼なった理由であります。

明和3年(1766年)現在の根岸八幡神社の場所に滝頭八幡神社を移築して、元八幡神社が建立され、これにより根岸村には不動尊元八幡神社の2社の鎮守が誕生してしまいました。この2社が年番で祭り祭りを主催することになり、村民はさぞ戸惑ったと思われる。

世は明治時代となり、神仏混合となっている当社は神仏分離令に依って、不動尊を本尊とする仏寺真言宗白滝不動尊となり、明治三年に宝積寺住職北見亮全は村民の協力によって御堂を中興し、これを宝積寺の境外仏堂としました。そこで根岸全村の鎮守は根岸八幡神社だけになったので、榊神輿を先頭に立て練り歩く祭事は根岸八幡神社が引き継がれるようになりました。

磯子区役所資料より
以上

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