横浜市無形民族文化財指定・根岸榊まつりについて、根岸榊御輿保存会が発行した資料をご紹介します。
根岸榊祭りは根岸不動尊から始まりました。
◇その前に
この祭礼開始に当たっては、色々事情がありました。江戸時代初期の根岸村は、今の堀割川の東側、原町〜上町〜大平台〜山元町〜麦田町〜大和町〜豆口台〜根岸町に囲まれた広大な地域でした。この地区の鎮守(土地の守り神)は、現在の八幡橋八幡神社(磯子区原町)で、毎年9月15日には盛大に祭礼が行われていました。ところが慶安4年(1651年)幕府の検地によって八幡神社の地、現在の磯子区原町地区が滝頭地区に神社と共に編入にされてしまい、このため根岸村には先祖代々からの鎮守が無くなり、村民唯一の楽しみの祭礼も他の村の神社となってしまったため次第に消滅してしまいました。
◇榊祭りは不動様から始まりました
それから40年余、村民は「氏神信仰の拠り所が欲しい」と貞享元年(1684年)不動様を氏神と定めましたが、当時は神仏混淆(しんぶつこんこう)の時代で村民も何のためらいもありませんでした。
※神社は神道、不動明王は仏教

そして5年後の元禄3年、参拝者も多く訪れるようになり、粗末な本殿を新社殿に大改築し、翌元禄4年(1690年)完成、開眼法要と共に不動様の縁日に当たる7月28日を祭礼の日と定め、榊神輿、神輿も新調し、太鼓櫓を連ねて賑やかなお祭りが始まりました。この祭りが根岸榊祭りの始めとされています。
当初は上根岸村(上町)も氏子として参加していましたが、明和元年(1764年)、芝生(東・西町)、下(下町)、馬場(馬場町)も仲間入りして根岸不動尊は根岸全村の鎮守となりました。
◇3年毎に
これらの村では祭礼が毎年盛大に行われていましたが、祭礼の出費の問題等で運営が難しくなり、各村が話し合いして、全村を大字である①加曾(根岸町)、②芝生(東・西町)、③岡(上、下、馬場町)の3村に分けて3地区が毎年、輪番で祭りを執り行うようになりました。この名残が今でも続く3年毎の祭礼開催です。
◇根岸八幡神社に移る
根岸八幡神社は江戸時代までは元八幡と呼ばれ、明和3年(1766年)廃社になった八幡橋八幡神社を遷宮したもので、後の享和年間に現在地に立派な神殿が建立され遷座されました。明治元年(1868年)明治政府により神仏分離令が発令され、元八幡神社は根岸八幡神社と改名し、祭事一切が根岸不動尊から根岸八幡神社に移され、祭礼は8月15日と決められて近年まで行われていました。
榊神祭り
前述の様に祭礼は8月14日宵宮、15日本祭りと決められ、16日鉢払いとしました。
◇戦後に苦労して復活
延々と続いてきたこの祭りも、昭和16年の太平洋戦争勃発で中断してしまいました。終戦を迎えてから2年後の昭和22年、物資が不足している時代でしたが、根岸町の皆さんの強い意気込みで復活し、以前のような榊御輿、宮御輿、樽神輿、山車を繰り出し、華やかに開催されました。しかし、この6年間のブランクは大きく、榊御輿の製作にあたり、経験者が亡くなったり、高齢になったりしていて、他の町は復活出来ませんでした。幸い根岸町だけが経験者が健在で、製作と後継者の育成もでき、存続することができて現在に至っています。
◇海上渡御が出来ない
昭和20年終戦と同時に、駐留軍が下町の瓦礫を根岸の海に廃棄するための埋め立てが始まり、徐々に海岸線が埋め立てられ、入水が出来なくなり海上渡御(とぎょう)は28年が最後となってしまいました。
この祭りは横浜の奇祭として古くから横浜史稿、中区史、磯子区史話などにも大きく掲載されています。この祭りを末長く存続すべく、平成6年神御輿保存会を結成し祭りの歴史研究や内容充実に努めております。
平成24年11月22日、その歴史価値を認められ、横浜市教育委員会より横浜市無形民俗文化財の指定を受けました。
※他に詳細を記したB424ページの冊子もあります。
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