町名

明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。慶應3年(1867年)3月に久良岐郡太田屋新田を埋め立て相生町字1丁目から2丁目の地ができ、明治4年7月に町名を付けた。
明治6年3月22日に相生町以南が焼失したので、明治6年5月に新浜町、若松町、高砂町、小船町、駒形町を廃止し、相生町、尾上町、住吉町、常盤町、真砂町、港町を東西直線に通し、相生町は字1丁目から6丁目までを置く。町名は謡曲の「高砂(古くは相生といった)」に由来する。町は1丁目から6丁目の字区域がある。

昭和10年7月1日設置。
昭和10年の町界町名地番整理施行にともない霞町字1丁目および清水町、南太田町字谷原耕地、霞耕地の一部から新設した町。字1丁目から2丁目を置く。昭和19年に中区の一部から西区を設けた時、赤門町字1丁目の区域は中区へ、字2丁目の区域は西区に属することとした。町名は真言宗東福寺の山門が赤く塗られていることに由来する。

昭和3年9月1日設置。
昭和3年の町界町名地番整理施行にともない久方町字1丁目・2丁目、足曳町字1丁目・2丁目、賑町字2丁目、吉岡町字1丁目~6丁目、長者町字4丁目、長島町字4丁目・5丁目、南吉田町字南五ツ目の各一部から新設した町。町名は明治14年の『小学唱歌集』に掲載された慈鎭和尚の「春のやよい」にでてくる「春のやよいの あけぼのに 四方の山べを 見わたせば 花盛りかも しら雲の かからぬ峰こそ なかりけり」から採った。町は1丁目から5丁目の字区域がある。

明治6年6月1日設置。
昭和3年廃止。
吉田新田埋立地内に新設。昭和3年9月1日町界町名整理の際に廃止。現在の中区長者町5丁目の一部。足曳町1、2丁目の一部区域は曙町となる。

昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年の横浜市編入の際、根岸町となる。町名は字名を採った。地名研究で「フクロ」とは「袋形の小地形」を意味するという。

明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは石川郷といい、堀之内村、横浜村、中村の地域を合わせて久良岐郡石川村といったが、後に分かれて久良岐郡石川中村となった。明治6年1月に石川中村の町並みの整ったところに石川町字1丁目から7丁目までを新設した。昭和10年の町界町名地番整理施行にともない字6丁目・7丁目を廃止した。『横浜文書』の「将軍家藤原頼経政所下文(貞永2年・1233)」に「平子郷内石河村」の記録がある。小泉八雲は『Glimpses of unfamiliar Japan』の「At the Market of the Dead」に石川町を「the Street of the Stony River.」と紹介している。町は1丁目から5丁目の字区域がある。

明治7年4月1日設置。
昭和10年廃止。
石川町の裏通りに7丁目までを設置。昭和10年7月1日町界町名整理の際、廃止。現在の中区石川町1丁目から5丁目。

明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。吉田新田を埋め立てて明治7年5月20日に伊勢佐木町字1丁目・2丁目を新設した。昭和3年の町界町名地番整理施行にともない松ケ枝町、賑町、長島町を廃止し、その区域を長者町および久方町の一部と末吉町字6丁目を経て南吉田橋に至るまで延長し、伊勢佐木町字7丁目までを置く。町名の由来については諸説ある。
第一説に、明治7、8年頃に元神奈川奉行であった佐々木信濃守と合原伊勢守の2人で開発したので「伊勢」と「佐木」の姓を連結した。
第二説に、明治7年頃に伊勢の佐々木某がそば屋、佐々木庵を開業して繁盛した。町名はその生国「伊勢」と姓「佐々木」を採った。
第三説に、明治5、6年頃に太田町の伊勢文蔵と、桜木町の佐々木次平が吉田橋際の伊勢佐木町付近の埋立事業を手掛けたことからその姓をとって名付けたという説がとられていた。
しかし、最近の調査で、伊勢佐木町の道路造成の費用を寄付して中島県令から銀杯を受けた伊勢屋中村治郎兵衛、佐川儀右衛門、佐々木新五郎の3人の姓から、それぞれ「伊勢」、「佐」、「木」を採ったものであることが分かった。(『有隣』第261号2頁 平成元年8月10日、有隣堂刊)。町は1丁目から7丁目の字区域がある。

明治44年4月1日設置。
昭和11年廃止。
大岡川村の大字井土ケ谷が、明治44年4月1日に横浜市に編入して井土ケ谷町と改称。昭和11年11月1日の町界町名整理の際に廃止。区域を3つに分け井土ケ谷上町、井土ケ谷中町、井土ケ谷下町を設置した。現在は南区に存在。

明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。明治6年1月に久良岐郡北方村の町並みの整った所に上野町を新設した。昭和3年9月の町界町名地番整理施行にともない上野町は上野町通の山手の天沼の一部を含んで、大和町と千代崎町間を中心とした区域とし、上野町字4丁目まで置く。町名は字名を採った。『新篇武蔵風土記稿』の北方村の項に「上野」の小名が記録されている。中島利一郎の『日本地名学研究』に「東京、横浜何れにも上野、根岸があるのは面白いが、上野は断崖上の平原丘と解し、または鹿、熊等の猟の少ない平山つづきの地と解釈してもいいと思う。」と述べている。町は1丁目から4丁目の字区域がある。

昭和10年7月1日設置。
昭和10年の町界町名地番整理施行にともない中村町から新設した町。町名は字名を採った。地名研究で「ウツ」とは「狭い谷、崖」、「コシ」とは「麓、崖」を意味するという。

明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。京屋内田清七が請け負って埋め立てた所で、明治5年に内田町字1丁目から12丁目までを新設した。明治20年に内田町字3丁目から5丁目までの片側を長住町とし、内田町は字1丁目から8丁目までとなる。町名は埋立者の姓「内田」を採った。町は飛地状となっている。

明治6年2月1日設置。
昭和3年廃止。
明治6年2月吉原町を廃し設置。昭和3年9月1日の町界町名整理の際に廃止。
現在の中区羽衣町3丁目にあたる。

扇町(おうぎちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。明治6年に吉田新田を埋め立てて扇町字1丁目から4丁目までを新設した。町名は縁起を祝って能の小道具「扇」を採った。また、洲干弁天に因むともいう。町は1丁目から4丁目の字区域がある。

大芝台(おおしばだい)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年の横浜市編入の際、根岸町となる。町名は字名「大芝」と、ここが台地に位置することから名付けた。地名研究で「シバ」は雑木類の「柴」を意味するという。

太田町(おおたまち)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。三河碧海郡川崎村出身の太田屋左兵衛が開発者となり、叔父の源左衛門が差配して嘉永3年(1850)から安政3年(1856)にかけて横浜村の南方一帯を大岡川の支流に至るまで埋め立て、太田屋新田と呼んだ。安政6年(1859)にこの新田の中に太田町字1丁目から5丁目までを新設した。文久元年(1861)に字6丁目から8丁目までを置いたが、その後、字7丁目・8丁目は外国人居留地に編入して廃止した。明治4年4月に横浜市街の測量を行い、神奈川県庁を起点として字1丁目から6丁目までとする。

大平町(おおひらちょう)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年の町界町名地番整理施行にともない根岸町と中村町の各一部から新設した町。町名は旧字名の平楽の一字を採り、「大平」という佳名を採ったものとされている。

翁町(おきなちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。明治6年に吉田新田の沼地を埋め立て、翁町を新設した。明治22年に横浜市翁町となる。町名は謡曲「翁」から名づけた。また、洲干弁天に因むともいう。明治時代の文学者で日本研究家の小泉八雲(1850年から1904年)は『Glimpses of unifamiiar of Japan』の「At the Market of the Dead」に翁町を「the Street of the Aged Man.」と紹介している。町に1丁目と2丁目の字区域がある。

尾上町(おのえちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。明治4年に太田屋新田の埋め立て地に尾上町を新設した。明治6年3月に相生町以南が焼失したため、明治6年5月に新浜町、若松町、緑町、高砂町、小松町、小船町、駒形町を廃止し、相生町、尾上町、住吉町、常盤町、真砂町、港町を東西に通る道路に沿って設置した。明治22年に横浜市尾上町となる。町名は、謡曲「高砂」に出てくる「尾上の松」に因んで名付けた。町に1丁目から6丁目の字区域がある。

海岸通(かいがんどおり)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。明治4年4月に海辺通(現在の元浜町)地先の海岸を埋め立て海岸通字1丁目から5丁目までを新設した。町名は海岸に面した町区域であることから名付けた。なお、元は、現在の元浜町の地域を海辺通(海岸通)と呼んでいたが、明治4年の埋め立てにともない、海岸通を新設したので、海辺通は元浜町と改称した。町は1丁目から5丁目の字区域がある。

柏葉(かしわば)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年の横浜市編入の際、根岸町となる。町名は字名を採った。地名研究で「カシワ」は「傾斜地」を意味するという。

【廃止】霞町(かすみちょう)
昭和10年廃止。
昭和10年7月1日、町界町名整理の際、清水町などとともに赤門町となり、廃止された。

かもめ町(かもめちょう)
昭和44年7月1日設置。
昭和44年の錦町・豊浦町地先の埋め立てにともない新設した町。この地域は中小企業が集結していることから1つの町を設定した。町名は進出企業団体からの希望で「千鳥町」と対応して「かもめ町」と名付けた。

北方町(きたがたちょう)
明治34年4月1日設置。
明治34年の横浜市編入の際、久良岐郡本牧村大字北方から新設した町。古くは久良岐郡北方村といい、明治22年の市町村制施行の際、本牧村大字北方となる。昭和8年の町界町名地番整理施行にともない字1丁目・2丁目を置く。『新篇武蔵風土記稿』の「北方村」の項に「本郷村より北方に當れる故此村あり」と記録されている。町は1丁目と2丁目の字区域がある。

北仲通
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。安政6年(1859)6月2日の横浜開港とともに北仲通字2丁目から5丁目までを新設した。明治4年4月に神奈川県庁を起点として、字1丁目から6丁目までを置いた。町名は「本町」の北に並行している仲通であることから名付けた。町は1丁目から6丁目の字区域がある。

【廃止】雲井町(くもいちょう)
明治6年11月設置。
昭和3年廃止。
吉田新田埋立地内に雲井町を設置。昭和3年9月1日の町界町名整理の際に廃止。
現在の中区長者町5丁目の一部。

黄金町(こがねちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡太田村のうちで、明治2年に黄金町字1丁目から4丁目までを新設した。昭和3年9月の町界町名地番整理施行にともない黄金町は三春町と南太田町字前里、西中の各一部の区域とする。町名は『淮南子』の「清水有黄金龍淵有玉英(清水に黄金あり、龍淵に玉英あり)」から「黄金」を採った。「清水町(昭和10年に廃町となり、赤門町へ)」、「英町」と対になっている。町は1丁目と2丁目の字区域がある。

寿町(ことぶきちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。明治6年4月に吉田新田の沼地を埋め立てて寿町字1丁目から4丁目までを新設した。町名は万代町、不老町、翁町、扇町と同じく縁起を祝って雅名を採った。町は1丁目から4丁目の字区域がある。

小港町(こみなとちょう)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年の町界町名地番整理施行にともない北方町、本牧町の一部から新設した町。町名は字名の「小湊」から採った。『新篇武蔵風土記稿』の「北方村」の項に「小湊」の記録がある。町は1丁目から3丁目の字区域がある。

【廃止】境町(さかいちょう)
明治元年9月設置。
昭和3年廃止。
外国人居留地と日本町との境の空地を入札により借地を提供した。外国人居住地との境となるため、塗家(防火のために外壁を土や漆喰しっくいなどで厚く塗り込んで造った家。※三省堂大辞林より)でなければ建築を許されなかった。同年12月に境町と名付け、設置された。昭和3年9月1日の町界町名整理の際に廃止。現在の中区日本大通の大部分にあたる。

鷺山(さぎやま)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年の町界町名地番整理施行にともない根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年の横浜市編入の際、根岸町となる。町名は字名を採った。横浜生まれの作家、平塚武二は『ヨコハマのサギ山』の中で「横浜に、サギ山という山があります。山といっても、高い山ではありません。昔、そのへんにサギがいたのでしょう。こんもりとした丘です」と書いている。

桜木町(さくらぎちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。明治5年の新橋・横浜間の鉄道敷設工事終了後、鉄道柵外を町並みとし、明治5年5月に桜木町を新設した。町名は「桜木川(後に桜川と改称し、その後埋め立てられた)」に添っていることから採った。桜木町1丁目から3丁目の字区域が中区に属し、桜木町4丁目から7丁目の字区域が西区に属する。

【廃止】清水町(しみずちょう)
明治4年9月設置。
昭和10年廃止。
太田村の内、町並の整理された区画に清水町を設置した。昭和10年7月1日町界町名整理の際に廃止。現在の中区赤門町1丁目にあたる。

新港(しんこう)
平成12年10月23日設置。
平成12年10月23日の住居表示施行にともない新港町から新設した町。

【廃止】新港町(しんこうちょう)
明治38年12月設置。
平成12年廃止。
7年と約234万5千円(現在のレート※で約27.4億円)をかけた横浜税関第1期海面埋立工事が竣工し、新港岸壁東半分と万国橋が完成。町名は「新しい港」を意味して名付けた。
平成12年10月23日、住居表示施行に伴い廃止。
※レート計算は企業物価指数 平成21年/明治38年 とした。

新山下(しんやました)
昭和45年4月1日設置。
昭和45年の住居表示施行にともない新山下町、山手町、小港町の各一部から新設した町。

【廃止】新山下町(しんやましたちょう)
大正12年2月1日設置。
昭和45年廃止。
埋立地に字1丁目から3丁目まで設けた町で、山下町の地先であることから新山下町と名付けた。
昭和45年の住居表示施行に伴い廃止。現在の新山下一丁目、二丁目、三丁目と山手町の各一部にあたる。

末広町(すえひろちょう)
昭和3年の町界町名地番整理施行にともない姿見町および羽衣町字1丁目、2丁目の一部と若竹町から新設した町。なお、姿見町と若竹町はこの時に廃町となる。町名は縁起を祝って名付けた。脇狂言に「末広がり」がある。町は1丁目から3丁目の字区域がある。

末吉町(すえよしちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。明治6年11月に吉田新田の埋立地内に末吉町字1丁目から7丁目までを新設した。昭和3年9月1日の町界町名地番整理施行にともない末吉町字5丁目から7丁目を廃止し、末広町字1丁目から4丁目までとした。町名は縁起を祝って名付けた。町は1丁目から4丁目の字区域がある。

【廃止】姿見町(すがたみちょう)
慶應3年3月設置。
昭和3年廃止。
吉田新田埋立地に遊廓を移した際、遊廓の大門の外を姿見町と名付けた。昭和3年9月1日町界町名整理の際に廃止。
現在の中区末広町3丁目にあたる。

住吉町(すみよしちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。慶應3年(1867)3月に太田屋新田の沼地を埋め立てた区域で、明治4年に住吉町字1丁目から3丁目を新設した。明治6年3月に相生町以南が焼失したので、明治6年5月に地区改正を行い、新浜町、若松町、緑町、高砂町、小松町、小船町、駒形町を廃止し、相生町、尾上町、住吉町、常盤町、真砂町、港町を東西一直線に通し、住吉町は字1丁目から6丁目までとする。町名は縁起を祝って名付けた。町は1丁目から6丁目の字区域がある。

【廃止】駿河町(するがちょう)
昭和3年廃止。
明治6年11月設置。
吉田新田埋立地内に設置。昭和3年9月1日町界町名整理の際に廃止。現在の中区弥生町1丁目、2丁目にあたる。

諏訪町(すわちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡北方村といい、明治6年に町並みの整った所へ諏訪町を新設した。町名は町内にある諏訪神社に因んで名付けた。『新篇武蔵風土記稿』の「北方村」の項に「諏訪社」の記録がある。

滝之上(たきのうえ)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年に横浜市に編入して根岸町となる。町名は根岸町にある白滝不動堂(磯子区上町の明王山不動院宝積寺の境外仏堂)の脇を流れ落ちる滝があり、町名は白滝不動堂の上に当たることから名付けた。

竹之丸(たけのまる)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の1部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年に横浜市に編入して根岸町となる。町名は字名を採った。地名研究で「マル」は「丘、小山」を意味するという。

立野(たての)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町、北方町の各一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年に横浜市に編入して根岸町となる。町名は字名を採った。『新篇武蔵風土記稿』の「根岸村」の項に「立野 北東の方にあり」の記録がある。地名研究で「タテ」は、「低地に臨んだ丘陵の端」、「台地などの高くなった所」などを意味するという。また、「タテノ」は「村落などの共有している山林、原野」を意味する地名といわれる。

千歳町(ちとせちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。明治7年7月に吉田新田の埋立地に千歳町字1丁目から3丁目までを新設した。明治15年1月に千歳町字3丁目の西側だけを永楽町字1丁目(現、南区)に編入する。

千鳥町(ちどりちょう)
昭和40年1月13日設置。
昭和40年に根岸町、間門町などの地先の埋め立てにともない新設した町。町名は隣接する磯子区鳳町と対応して名付けた。

長者町(ちょうじゃまち)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。明治3年に吉田新田の埋立地に長者町字1丁目から4丁目を新設した。『横浜沿革誌』の明治3年6月の項に「吉田新田ノ中家屋聯接セシヲ以テ長者、福富ノ両町名ヲ付ス」の記録がある。昭和3年9月1日の町界町名地番整理施行にともない蓬莱町、梅ケ枝町、福富町、末吉町、若竹町、賑町、久方町、足曳町、雲井町、若葉町から字5丁目から9丁目の区域を設ける。町名は縁起を祝って名付けた。町内に祀る長者稲荷から「長者」を採ったとの説もある。『新篇武蔵風土記稿』の「吉田新田」の項に「稲荷社 除地、同じ方にあり、持同じ」の記録がある。町は1丁目から9丁目の字区域がある。

千代崎町(ちよざきちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡北方村といい、明治6年に町並みの整ったところに千代崎町字1丁目・2丁目を新設した。昭和3年の町界町名地番整理施行にともない千代崎町通から北方町字竹ノ花の全部を区域と定め、千代崎町字3丁目・4丁目を新設した。町は1丁目から4丁目の字区域がある。

塚越(つかごし)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年の横浜市編入の際、根岸町となる。町名は字名を採った。地名研究で「ツカ」とは「丘や土を盛った地形」、「コシ」は「崖、麓」を意味するという。

【廃止】月岡町(つきおかちょう)
明治9年2月設置。
昭和10年廃止。
戸部村の一部と太田村の一部を分割し設置。昭和10年7月1日町界町名整理の際に廃止され、西区老松町に編入された。

寺久保(てらくぼ)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年の横浜市編入の際、根岸町となる。町名は字名を採った。地名研究で「テラウチ」は「平らな入り谷の地形」を意味するという。

常盤町(ときわちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。慶應3年(1867)3月に久良岐郡太田屋新田の沼地を埋め立て、明治4年に常盤町を新設した。明治6年3月に相生町以南を焼失し、明治6年5月に新浜町、若松町、緑町、高砂町、小松町、小船町、駒形町を廃止し、相生町、尾上町、住吉町、常盤町、真砂町、港町を東西直線に通し、常盤町は字1丁目から6丁目までを置く。昭和3年9月1日に土地区画整理を行い、常盤町通を尾上町、住吉町を経て大江橋川岸に出るように延長した。町名は謡曲「鉢の木」から採ったが、「常磐」ではなく「常盤」と表記する。町は1丁目から6丁目の字区域がある。

豊浦町(とようらちょう)
昭和42年11月10日設置。
昭和42年の本牧元町地先の埋め立てにともない新設した町。町名はこの地が元は海面であったため「浦」を選び、将来の繁栄を願って「豊浦」と名付けた。

仲尾台(なかおだい)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年の横浜市編入の際、根岸町となる。町名はこの地域が台地にあるため字名「仲尾」に「台」を付けて名付けた。地名研究で「ナカオ」は「谷戸の中央の尾根」を意味するという。

【廃止】長島町(ながしまちょう)
明治6年11月設置。
昭和3年廃止。
吉田新田埋立地に設置。昭和3年9月1日町界町名整理の際に廃止。
現在の中区伊勢佐木町5、6、7丁目の一部区域である。
長島町4、5丁目の一部区域は曙町となる。
長島町7丁目の一部は南区山王町となる。

【廃止】浪花町(なにわちょう)
詳細不明設置。
昭和3年廃止。
「横浜開港五十年史」(1909年)では慶應2年新設と記載があるが、明治初年の地図には掲載されていない。吉原遊廓の設置(慶應3年)後、明治5年頃に町名を付した可能性がある。昭和3年9月1日町界町名整理により廃止。
現在の中区羽衣町3丁目の大部分。

【廃止】賑町(にぎわいちょう)
明治6年11月設置。
昭和3年廃止。
吉田新田埋立地内に新設。昭和3年9月1日町界町名整理の際、廃止。
現在の中区伊勢佐木町3、4丁目に含まれる。
賑町2丁目の一部区域は曙町となる。

錦町(にしきちょう)
昭和42年11月10日設置。
昭和42年の本牧町、本牧元町などの地先の埋め立てにともない新設した町。町名は縁起を祝って名付けた。

西竹之丸(にしたけのまる)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年の横浜市編入の際、根岸町となる。町名は字名を採った。

西之谷町(にしのやちょう)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年の町界町名地番整理施行にともない北方町、本牧町、根岸町の各一部から新設した町。古くは久良岐郡北方村という。町名は字名を採った。『新篇武蔵風土記稿』の「北方村」の項に「西谷戸 西南なり」の記録がある。「谷」は「谷戸」の省略形である。

日本大通(にほんおおどおり)
昭和3年9月1日設置。
昭和3年の町界町名地番整理施行にともない境町を廃止し、その区域と山下町および本町字1丁目の一部から新設した町。古くは久良岐郡横浜村といい、安政6年(1859)の横浜開港で外国人居留地と定めたが、最初は町名を設けなかった。明治12年1月に外国人居留地内に町名を付け、加賀町、薩摩町、越後町など30か町を新設し、当町を日本大通と名付けた。明治33年に日本大通を山下町と改称して字日本大通となる。町名は旧字名を採った。

根岸旭台(ねぎしあさひだい)
昭和15年4月1日設置。
昭和15年に根岸芝生台を根岸旭台に改称して新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年の横浜市編入の際、根岸町となる。昭和8年に根岸町の一部から根岸芝生台を新設した。『新篇武蔵風土記稿』の「根岸村」の項に「芝生 南の方を云」の記録がある。

根岸加曽台(ねぎしかぞうだい)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年の横浜市編入の際、根岸町となる。町名はこの地域が台地にあるため字名「加曽」に「台」を付けて名付けた。『新篇武蔵風土記稿』の「根岸村」の項に「加曽 東の方にあり」の記録がある。地名研究で「カゾ」は「崖」を意味するという。

【廃止】根岸芝生台(ねぎししばふだい)
昭和8年4月1日設置。
昭和15年廃止。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。芝生台、寺久保、西根岸町字下、西芝生から字名の一つを採り、根岸の芝生台であるとしてこの町名とした。
昭和15年4月1日の町名改称にて廃止。現在の根岸旭台となる。

根岸台(ねぎしだい)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年の横浜市編入の際、根岸町となる。字名に「仲丸」があるが、昭和7年に神奈川区中丸が新設されているため、この地域が根岸の台地であることから根岸台と名付けた。

根岸町(ねぎしちょう)
明治34年4月1日設置。
明治34年の横浜市編入の際、久良岐郡根岸村から新設した町。古くは久良岐郡根岸村という。昭和2年に根岸町の一部の字芝生、西芝生、下、坂下、馬場、上の区域を西根岸町と改称して磯子区に編入した。昭和8年の町界町名地番整理施行にともない磯子区西根岸町字下の一部を中区根岸町字芝生台に編入し、旧字名を廃止して18か町を新設した。『横浜文書』の「眞照寺圓鎮法印遺跡寄進状(寛正4年・1463)」に「平子郷根岸村」の記録がある。柳田國男は『地名の研究』の「地名考説」で「東京と横浜に1つずつある根岸という地名は、また関東から奥州にかけて数多い地名である。『地名辞書』には前代の地誌の説を承けて、山の根岸の義なるべしと書いてある。またそれより他の解しようもない。目撃または地図によって自分が検した数箇所の地形もこれに合致している。ただし何ゆえにこの地名がはなはだ多く発生したかについては、なお考えてみる必要がある。岸はもと水際のことであるのを、丘の麓にまで準用したのは、方言かあるいは転訛である。」と述べている。『新篇武蔵風土記稿』の根岸村の項に「此地西北山にして、其根岸なれは則村名とすと云」の記録がある。地名研究で「ネギシ」は、「山・岡の麓に沿った地」、「崖・斜面」を意味するという。町は1丁目から3丁目の字区域がある。

野毛町(のげちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡戸部村野毛浦といい、横浜の開港にともない万延元年(1860)に神奈川奉行預り地となり、野毛町を新設し、字1丁目から4丁目までを置く。昭和3年9月1日の町界町名地番整理施行にともない丁目の配列を変更した。中島利一郎は『日本地名学研究』の「神奈川雑記」に「野毛は突端の訳で、ここばかりでなく、金沢八景の所謂能見堂も、林羅山が、『寛明日記』正保2年の条に、「金沢のノツケ堂をば、金岡が筆を捨て仰に反りたりと云事証説なし」と書いてゐるやうに、ノツケといつた。吉田博士は、「今按ノツケは方俗に野毛と云ふと一語にあらずや」といつてゐる通りで、ここのも横浜野毛山と同じく、突端の義であることは明かである。」と述べている。また、地名研究では「ノゲ」は「崖」を意味することが多いという。町は1丁目から4丁目の字区域がある。

羽衣町(はごろもちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡吉田新田の内であり、明治2年までは姿見町裏と呼んだ。明治2年8月に羽衣町字1丁目から3丁目を新設した。昭和3年の町界町名地番整理施行にともない姿見町、蓬莱町、梅ケ枝町の一部と浪花町を合併した。町名は洲干弁天を遷座した厳島神社に因み天女に関係のある「羽衣」を選んだ。謡曲「羽衣」がある。町は1丁目から3丁目の字区域がある。

初音町(はつねちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡太田村といい、明治4年に町並みの整ったところに初音町字1丁目から4丁目までを新設した。昭和3年の町界町名地番整理施行にともない字4丁目の区域を前里町に編入し、黄金町、三春町の各一部を編入した。町名は佳名を採った。町は1丁目から3丁目の字区域がある。

花咲町(はなさきちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。花咲町の地域は、元治元年(1864)に野毛山下の海岸を埋め立てて石炭倉庫を建てたところであるが、明治3年から5年にかけて倉庫を取り壊し、明治5年11月に花咲町字1丁目から12丁目までを新設した。昭和3年の町界町名地番整理施行にともない花咲町字1丁目を緑橋に延長し、福島町を廃止して花咲町字2丁目に改め、戸部橋際を境に花咲町字7丁目と改め、花咲町字8丁目から12丁目を廃止した。町名は町の前を流れていた桜木川(後に桜川と改称し、その後埋め立てられている)に因み佳名を採った。花咲町1丁目から3丁目の字区域が中区に属し、花咲町4丁目から7丁目の字区域が西区に属している。

英町(はなぶさちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡太田村といい、明治4年に町並みの整った所に英町字1丁目から4丁目を新設した。昭和3年9月の町界町名地番整理施行にともない字3丁目を前里町、西中町に編入し、霞町の一部を編入した。町名は『淮南子の「清水有黄金龍淵有玉英(清水に黄金あり、龍淵に玉英あり)」から「英」を採った。「清水町(廃町)」、「黄金町」と対になっている。

万代町(ばんだいちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡吉田新田の南一ツ目と呼ばれる沼地であったが、明治6年4月に掘割川を切り開いた土砂で埋め立て、不老町、翁町、扇町、寿町、松影町などとともに万代町を新設した。町名は佳名を採った。町は1丁目から3丁目の字区域がある。

【廃止】久方町(ひさかたちょう)
明治6年11月設置。
昭和3年廃止。
吉田新田埋立地内に設置。昭和3年9月1日町界町名整理の際に廃止。
現在の中区伊勢佐木町4丁目、長者町6丁目、曙町1,2丁目の一部。

日ノ出町(ひのでちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。この地域は江戸時代の宝暦年間(1751~1763)に埋め立てられ、久良岐郡太田村といい、安政6年(1859)の横浜開港の際、横浜の警備を命じられた越前福井藩主松平越前守茂昭が越前陣屋(太田陣屋)を置いた所である。その後、陸軍用地となり、明治4年9月に町並みの整った所に日ノ出町字1丁目から3丁目を新設した。昭和3年の町界町名地番整理施行にともない字3丁目を廃止した。町名は佳名を採った。町は1丁目と2丁目の字区域がある。

【廃止】福島町(ふくしまちょう)
明治5年5月設置。
昭和3年廃止。
福島長兵衛の埋立地に設置。その姓を採って町名とした。昭和3年9月1日町界町名整理の際に廃止。現在の中区花咲町2丁目の一部。

【廃止】福富町(ふくとみちょう)
明治3年6月設置。
昭和3年廃止。
吉田新田内の家屋が連なって建っていた場所に新設。現在の中区福富町東通、同西通の地である。昭和3年9月1日町界町名整理の際、これを3ケ町(福富町仲通、同東通、同西通)に分立して福富町を廃止。

福富町仲通(ふくとみちょうなかどおり)
昭和3年9月1日設置。
昭和3年の町界町名地番整理施行にともない福富町字2丁目、長者町の各一部から新設した町。古くは久良岐郡吉田新田の内、勇吉新田、加島新田で、明治3年に町並みの整った所に福富町字1丁目から3丁目までを置いた。町名は縁起を祝って佳名を採った。

福富町西通(ふくとみちょうにしどおり)
昭和3年9月1日設置。
昭和3年の町界町名地番整理施行にともない福富町字3丁目から新設した町。古くは久良岐郡吉田新田の内、勇吉新田、加島新田で、明治3年に町並みの整った所に福富町字1丁目から3丁目までを置いた。町名は縁起を祝って佳名を採った。

福富町東通(ふくとみちょうひがしどおり)
昭和3年9月1日設置。
昭和3年の町界町名地番整理施行にともない福富町字1丁目、長者町の各一部から新設した町。古くは久良岐郡吉田新田の内、勇吉新田、加島新田で、明治3年に町並みの整った所に福富町字1丁目から3丁目までを置いた。町名は縁起を祝って佳名を採った。

富士見町(ふじみちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。もとは、久良岐郡吉田新田の内であり、明治5、6年頃に富士見町字1丁目から5丁目までを新設した。明治15年に富士見町字3丁目を永楽町へ、富士見町字4丁目・5丁目を真金町に編入し、富士見町は字1丁目・2丁目となる。町名は佳名を採った。

不老町(ふろうちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。明治6年4月に吉田新田の沼地を埋め立て、不老町字1丁目から3丁目までを新設した。町名は「不老不死」の地とされる霊山蓬莱に因んで佳名を採った。小泉八雲は『Glimpses of unfamiliar Japan.』の「At the Market of the Dead.」に不老町を「the Street Everlasting.」と紹介している。町は1丁目から3丁目の字区域がある。

弁天通(べんてんどおり)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡横浜村といい、安政6年(1859)の横浜開港に際し、弁天通字2丁目から5丁目までを新設した。明治4年4月に丁目の数え方を変更し、神奈川県庁を起点として字1丁目から6丁目までを置く。町名は洲干弁天社へ一直線に通づる道路にあたることから名付けた。町は1丁目から6丁目の字区域がある。

蓬莱町(ほうらいちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。明治6年に羽衣町裏の埋立地に蓬莱町字1丁目から4丁目までを新設した。昭和3年の町界町名地番整理施行にともない蓬莱町字4丁目を長者町字5丁目に入れ、羽衣町字1丁目・2丁目の一部を編入した。町名は不老不死の地とされる霊山蓬莱に因んで佳名を採った。町は1丁目から3丁目の字区域がある。

本郷町(ほんごうちょう)
昭和3年9月1日設置。
昭和3年に本牧町の一部から新設した町。本郷町字1丁目・2丁目を置き、その後、昭和8年に本郷町字3丁目を置く。古くは久良岐郡本牧本郷村といい、明治22年の市町村制施行の際、北方村と合併して本牧村となり、明治34年の横浜市編入の際、本牧町となる。町名は旧村名を採った。地名研究で「本郷」とは「枝郷、出郷、出村」に対しての「本郷」を意味するという。町は1丁目から3丁目の字区域がある。

本町(ほんちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡横浜村といい、安政6年(1859)6月2日の横浜開港に際して本町字1丁目から5丁目を新設した。明治4年4月に神奈川県庁を起点として丁目の数え方を変更し、字1丁目から6丁目を置いた。町名は横浜町の真ん中という意味で名付けた。町は1丁目から6丁目の字区域がある。

本牧町(ほんもくちょう)
明治34年4月1日設置。
明治34年の横浜市編入の際、久良岐郡本牧村大字本郷から新設した町。古くは久良岐郡本牧本郷村といい、明治22年の市町村制施行の際、本牧村大字本牧本郷となる。昭和8年の町界町名地番整理施行にともない旧字名を廃止して本牧町字1丁目から4丁目までを置き、旧本牧町の区域に本牧荒井、本牧満坂、本牧緑ケ丘、本牧元町、本牧大里町、本牧三之谷、間門町、本牧和田、本郷町、本牧十二天を置いた。『横浜文書』の「北条氏康禁制(天文14年・1545)」に「本牧郷」の記録がある。「本牧」は「本目」と書いた記録があり、地形状からも牧場との関係はないと考えられる。町は1丁目と2丁目の字区域がある。

本牧荒井(ほんもくあらい)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年の町界町名地番整理施行にともない本牧町、根岸町の各一部から新設した町。古くは久良岐郡本牧本郷村といい、明治22年の市町村制施行の際、北方村と合併して本牧村となり、明治34年の横浜市編入の際、本牧町となる。町名は字名を採った。地名研究で「アライ」は「新居、新しい村」を意味するという。

本牧大里町(ほんもくおおさとちょう)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に本牧町の一部から新設した町。古くは久良岐郡本牧本郷村といい、明治22年の市町村制施行の際、本牧村となり、明治34年の横浜市編入の際、本牧町となる。町名は字名「大谷戸」と「下里」から「大」と「里」を採った。

本牧三之谷(ほんもくさんのたに)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に本牧町の一部から新設した町。古くは久良岐郡本牧本郷村といい、明治22年の市町村制施行の際、本牧村となり、明治34年の横浜市編入の際、本牧町となる。町名は字名を採った。本牧村には一之谷、二之谷、三之谷の谷戸がある。なお、三溪園さんけいえんの「三溪さんけい」は、創設者、原富太郎はらとみたろうの号であるが、「さんのたに」を意味している。

本牧十二天(ほんもくじゅうにてん)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に本牧町の一部から新設した町。古くは久良岐郡本牧本郷村といい、明治22年の市町村制施行の際、本牧村となり、明治34年の横浜市編入の際、本牧町となる。昭和61年7月21日に住居表示を施行し、小港町、錦町の各一部を編入した。町名は字名を採った。町名の「十二天」は魚網の中に十二天のご神体が出現し、それを祀った本牧村の鎮守、十二天(本牧神社)に因んで名付けた。

本牧原(ほんもくはら)
昭和61年7月21日設置。
昭和61年の住居表示施行にともない錦町、本牧三之谷、本牧十二天、本牧町、本牧元町、本牧和田の各一部から新設した町。町名は字名に「本牧」を冠した。

本牧ふ頭(ほんもくふとう)
昭和43年8月31日設置。
昭和43年の錦町地先の埋め立てにともない新設した町。その後、数十次にわたる埋立地の編入で現在の町区域となる。町名は、この埋立地が「本牧ふ頭」と呼ばれていたことから名付けた。

本牧間門(ほんもくまかど)
平成6年9月26日設置。
平成6年の住居表示施行にともない、本物三之谷、間門町の各一部から新設した町。町名は、従前の町名「間門町」に地元要望により「本牧」を冠した。間門町は、昭和8年の町界町名地番整理施行にともない、本牧町、根岸町の各一部から新設し、町名は本郷村の小名を採った。柳田國男は「マカド」とはアイヌ語のマカ(開く、開けたる)と、ト(湖水)という二語からでたものではないかという。他の地名研究で「マカド」は「崖などの急斜地」を意味するという。

本牧満坂(ほんもくまんざか)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に本牧町の一部から新設した町。古くは久良岐郡本牧本郷村といい、明治22年の市町村制施行の際、本牧村となり、明治34年の横浜市編入の際、本牧町となる。町名は字名を採った。地名研究では「マンザカ」は「崖の谷戸」を意味するという。

本牧緑ケ丘(ほんもくみどりがおか)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年の町界町名地番整理施行にともない本牧町、根岸町の各一部から新設した町。古くは久良岐郡本牧本郷村といい、明治22年の市町村制施行の際、北方村と合併して本牧村となり、明治34年の横浜市編入の際、本牧町となる。町名はこの地域に丘陵が多く、緑葉風光を添える地であることから佳名を採って名付けた。

本牧宮原(ほんもくみやばら)
昭和61年7月21日設置。
昭和61年の住居表示施行にともない小港町、本牧十二天、本牧町の各一部から新設した町。町名は字名に「本牧」を冠した。

本牧元町(ほんもくもとまち)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に本牧町の一部から新設した町。古くは久良岐郡本牧本郷村といい、明治22年の市町村制施行の際、本牧村となり、明治34年の横浜市編入の際、本牧町となる。昭和40年代に4回にわたり埋立地の編入をした。町名はこの地域が本牧本郷村の中心であったことから「元町」と名付けた。

本牧和田(ほんもくわだ)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に本牧町の一部から新設した町。古くは久良岐郡本牧本郷村といい、明治22年の市町村制施行の際、本牧村となり、明治34年の横浜市編入の際、本牧町となる。昭和61年7月21日の住居表示施行にともない、本牧荒井、本牧三之谷、本牧町、間門町の各一部を編入した。町名は字名を採った。地名研究で「ワダ」とは「川の曲流部などのやや広い丸みのある平地」で、そこが田であることを要しないという。

【廃止】間門町(まかどちょう)
昭和8年4月1日設置。
平成6年廃止。
昭和8年4月1日、町界町名整理の際に、本牧町字池田、真福寺、配郷、一之谷二之谷、向及び根岸町字池袋の各一部の区域に新設し、1、2丁目を設置。字名間門を町名とした。
平成6年9月26日の住居表示施行により廃止。現在の池袋、千鳥町、本牧荒井、本牧三之谷、本牧間門の各一部。

真砂町(まさごちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。慶應3年(1867)3月に伊藤清十郎が太田屋新田の沼地を埋め立て真砂町を新設した。明治6年3月に相生町以南が焼失し、明治6年5月に新浜町、若松町、緑町、高砂町、小松町、小船町、駒形町を廃止し、相生町、尾上町、住吉町、常盤町、真砂町、港町を東西直線に通し、真砂町字1丁目から4丁目までを置く。町名は佳名を採った。町は1丁目から4丁目の字区域がある。

【廃止】松ケ枝町(まつがえちょう)
明治6年2月設置。
昭和3年廃止。
吉原町を廃止し新設。昭和3年9月1日町界町名整理の際に廃止。現在の中区伊勢佐木町2丁目。

松影町(まつかげちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡吉田新田の南一ツ目と呼ばれる沼地であったが、明治6年に掘割川を切り開いた土砂で埋め立て、万代町、不老町、翁町、扇町、寿町などとともに松影町字1丁目から4丁目までを新設した。町名は佳名を採った。町は1丁目から4丁目の字区域がある。

豆口台(まめぐちだい)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年に横浜市に編入して根岸町となる。町名はこの地域が台地であることから字名「豆口」に「台」を付けて名付けた。

港町(みなとちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡太田屋新田といい、明治4年に町並みの整った所に相生町、住吉町、尾上町、小松町、小船町、高砂町などとともに港町を新設した。明治6年3月に相生町以南を焼失し、明治6年5月に新浜町、若松町、緑町、高砂町、小松町、小船町、駒形町を廃止し、相生町、尾上町、住吉町、常盤町、真砂町、港町を東西直線に通し、港町字1丁目から6丁目までを置いた。町名は開港場に因んで名付けた。町は1丁目から6丁目の字区域がある。

南仲通(みなみなかどおり)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡横浜村といい、安政6年(1859)の横浜開港に際して南仲通字2丁目から5丁目までを新設した。明治4年4月に神奈川県庁を起点として、字1丁目から5丁目までを置いた。町名は本町の南方にあたることから名付けた。町は1丁目から5丁目の字区域がある。

南本牧(みなみほんもく)
平成10年4月1日設置。
南本牧ふ頭の存在する埋立地。

簑沢(みのさわ)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年、横浜市に編入して根岸町となる。町名は字名を採った。地名研究で「ミノサワ」は「土地の低い沢(谷戸)」を意味するという。

【廃止】三春町(みはるちょう)
明治4年9月設置。
昭和3年廃止。
太田村地内の町並家屋が連なっている区域に設置。昭和3年9月1日町界町名整理の際に廃止。
現在の中区黄金町、初音町、南区前里町の各一部区域。

宮川町(みやがわちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡戸部村野毛浦といい、明治5年11月に都橋から大岡川の西河岸側に宮川町を新設した。「宮川」は野毛の都橋のそばに祀られていた「子ノ神社」の横を流れていた川の名に由来する。町は1丁目から3丁目の字区域がある。

妙香寺台(みょうこうじだい)
昭和11年11月1日設置。
昭和11年に北方町の一部から新設した町。古くは久良岐郡北方村といい、明治22年の市町村制施行の際、本牧村となり、明治34年に横浜市に編入して北方町となる。町名は町内にある蓮昌山妙香寺に因んで名付けた。

三吉町(みよしちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。もとは久良岐郡吉田新田の内であったが、明治5、6年頃に三吉町字1丁目から4丁目までを新設した。町名は縁起を祝って名付けた。

麦田町(むぎたちょう)
昭和3年9月1日設置。
昭和3年の町界町名地番整理施行にともない根岸町字麦田および北方町字上野、根岸町字立野、鷺山、竹ノ丸の一部から新設した町。麦田町字1丁目から4丁目までを置く。古くは久良岐郡根岸村といった。町名は字名を採った。地名研究で「ムギ」は植物の「麦」の意味と「段丘」の意味とがあるという。町は1丁目から4丁目の字区域がある。

元浜町(もとはまちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡横浜村といい、安政6年(1859)の横浜開港に際し、海辺通字2丁目から5丁目までを新設した。明治4年4月にその地先を埋め立て海岸通を新設したため、海辺通を元浜町と改称した。町は1丁目から4丁目の字区域がある。

元町(もとまち)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。安政6年(1895)の横浜開港に際し、開港場を建設するため、横浜村の民家91余軒を万延元年(1860)2月に掘川の東へ移し、本村、元村、元村町、横浜元町などと呼んだ。外国人居留地と山手居留地の中間に位置することから、農漁業よりも外国人へ日用品を供給し、輸入品を扱う店が多くなり、文久3年(1863)にほぼ今の元町が形成された。横浜市に編入して単に元町と称するようになった。町名は元の横浜村を移したことから名付けた。町は1丁目から5丁目の字区域がある。

矢口台(やぐちだい)
昭和8年4月1日設置。
昭和8年に根岸町の一部から新設した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治34年に横浜市に編入して根岸町となる。町名は字名を採った。地名研究で「ヤグチ」とは「谷戸の入り口」を意味するという。

【廃止】柳町(やなぎちょう)
明治5年2月設置。
昭和3年廃止。
吉田町海面埋立が竣工し設置。昭和3年9月1日町界町名整理の際に廃止。現在の中区吉田町の一部。

山下町(やましたちょう)
明治32年7月24日設置。
明治32年に外国人居留地の町名をすべて廃止し、山下町と改称して新設した町。古くは久良岐郡横浜村といい、安政6年(1859)の横浜開港に際して運上所を境界として、以東を外国人居留地と定め、慶應2年(1866)3月に太田屋新田の沼地を埋め立てて拡張した。明治12年1月に外国人居留地へ、阿波町、上田町、蝦夷町、越後町、大坂町、小田原町、尾張町、海岸通り、加賀町、角町、九州町、京町、神戸町、薩摩町、駿河町、長崎町、日本大通り、函館町、花園町、琵琶町、富士山町、二子町、豊後町、堀川町、本町通り、本村通り、前橋町、水町通り、武蔵町、武蔵横町の30か町を新設した。

山田町(やまだちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡吉田新田といい、明治5、6年頃に山田町字1丁目から5丁目までを新設したといわれる。明治15年に山田町字3丁目を永楽町へ、山田町字4丁目・5丁目を真金町へ入れ、山田町は字1丁目・2丁目となる。町名はこの地区へ最初に居住した人の「山田」という姓から採った。

山手町(やまてちょう)
明治32年7月24日設置。
明治32年に外国人居留地の26か町を廃止し、その全区域をもって山手町を新設した。古くは久良岐郡北方村といい、慶應2年11月23日(1866年12月29日)に調印した「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」により、山手地所を外国人へ貸すように決め、明治17年7月に、この山手居留地に稲荷町、内臺坂、貝殻坂、公園坂、小坂町、汐汲坂、地蔵坂、撞木町、陣屋町、諏訪町通、大丸坂、高田坂、環町、西坂町、西野坂、泉町、畑町、林町、富士見町、三ノ輪坂、南坂、宮脇坂、谷戸坂、矢ノ根町、山手本町通、弓町の26か町を新設した。町名は横浜の山手にあたる所から名付けた。「白水町」と表記した文献があるが、これは「泉町」の「泉」を誤って「白」と「水」に分割してしまったものである。横浜居住の外国人は山手を「崖」を意味する英語で「BLUFFぶらふ」と呼んだ。地名研究で「山手」という地名は、海に臨んだ都市で多く使われているという。

大和町(やまとちょう)
昭和3年9月1日設置。
昭和3年の町界町名地番整理施行にともない根岸町字立野、鷺山、竹ノ丸の一部から新設した町。大和町字1丁目から3丁目までを置く。古くは久良岐郡根岸村といい、『神奈川県史料』第7巻によると、横浜に駐留したイギリス兵にライフル銃試射場として借与し、「角打場」と呼ばれた一直線に連なる地域で、明治6年4月に英国人の横浜アマチュール・アゾルテック(娯楽運動)組合に貸したとある。明治42、3年頃に大和屋シャツ店、石川清右衛門が店を開き、その後、大正元年に市電本牧線の開通の際に、大和町停留所と名付けている。町名はその停留所名や石川氏の屋号を採った。町は1丁目と2丁目の字区域がある。

【廃止】山内町(やまのうちちょう)
明治39年4月1日設置。
昭和19年廃止。
神奈川区神奈川町及び青木町の地失の海岸と山内侯爵家の願により埋め立てた地。
明治39年に新設された。名前の由来は侯爵家の性をとったもの。
昭和18年12月1日。神奈川区山内町1.2丁目は中区に編入。
昭和19年2月1日。西区に編入(表高島町と合併)現在の西区高島一丁目、緑町、桜木町の一部。

山吹町(やまぶきちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡吉田新田の内であり、明治5、6年頃に山吹町字1丁目から3丁目までを新設し、明治15年に山吹町3丁目を永楽町字1丁目・2丁目に編入した。町名は佳名を採った。

山元町(やまもとちょう)
明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡根岸村といい、明治6年1月に町並みの整った所に山元町字1丁目・2丁目を新設した。昭和8年の町界町名地番整理施行にともない山元町字5丁目までを置く。地名研究で「ヤマモト」とは「山の麓」を意味するという。町は1丁目から5丁目の字区域がある。

弥生町(やよいちょう)
昭和3年9月1日設置。
昭和3年の町界町名地番整理施行にともない足曳町字1丁目の一部、雲井町字1丁目・2丁目、駿河町字1丁目から3丁目、南吉田町字南四ツ目の一部で、河岸通を日本橋に至るまでの地域から新設した町。町名は明治14年の『小学唱歌』に掲載された慈鎭和尚の「春のやよい」にでてくる「春のやよいの あけぼのに 四方の山べを 見わたせば 花盛りかも しら雲の かからぬ峰こそ なかりけり」から採って名付けた。町は1丁目から5丁目の字区域がある。

横浜公園(よこはまこうえん)
昭和3年9月1日設置。
昭和3年の町界町名地番整理施行にともない山下町の公園の地域に新設した町。古くは久良岐郡太田屋新田の沼地であったが、安政6年(1859)の横浜開港にあたって、ここを埋め立て、港崎町と名付けた地域。慶應2年(1866)10月20日の横浜大火によって被害を受けて空き地となったが、元治、慶應の条約に基づいて、外国人と日本人共有の公園の築造に明治7年から取りかかり、明治9年に横浜公園(彼我公園)が完成した。明治32年に公園は横浜市の管理となり、次いで、公園内を外国人へ貸与していたクリケットグラウンドが返還されたので、明治42、3年に整備した。大正12年の関東大地震で被害を受け、昭和4年に震災復興事業として野球場や音楽堂が完成した。昭和20年に駐留軍に接収され、ゲーリック球場となったが、昭和27年に接収は解除された。昭和53年に「横浜スタジアム」が完成した。

明治6年11月設置。
昭和3年廃止。
吉田新田埋立地へ設置。昭和3年9月1日町界町名整理の際に廃止。現在の中区曙町3丁目、4丁目、5丁目の大部分。

明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは万治2年(1659)2月に吉田勘兵衛が埋め立てた久良岐郡吉田新田一部で、安政6年(1859)の横浜開港にともなう横浜道の整備によって吉田新田の堤に沿った町並みが整い、元治元年(1864)に田畑を全部埋め立てて吉田町字1丁目・2丁目を新設した。昭和3年の町界町名地番整理施行にともない丁目を廃止し、柳町を合併した。町名は吉田新田の埋立者、「吉田勘兵衛」に因んで名付けた。

明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。古くは久良岐郡吉田新田といい、横浜開港にともない、元治元年(1864)8月にこの地に横浜製鉄所を建設し、明治7年に吉浜町を新設した。明治12年に横浜製鉄所を民業へ移し、明治18年8月に、これを東京の石川島へ移転した。

明治22年4月1日設置。
昭和3年廃止。
昭和3年9月1日、町界町名整理の際に姿見町、羽衣町1、2丁目の一部とともに末広町となり、廃止。

明治22年4月1日設置。
明治22年の市町村制施行の際、横浜市に編入した町。明治6年11月に吉田新田の埋立地へ若葉町字1丁目から3丁目までを新設した。町名は佳名を採った。町は1丁目から3丁目の字区域がある。

昭和61年7月21日設置。
昭和61年の住居表示施行にともない本牧荒井、本牧町、本牧満坂、本牧和田の各一部から新設した町。町名は丘陵地の通称である「和田山」から採った。